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2013年01月12日

1月の公民館講座のお知らせ

 
 会員の皆さまへ

  文化財サポーターDEIDEIDEIの事務局からお知らせです。

 1月の公民館講座『奄美 見て歩き』は、先月に引き続き、宇宿校区です。

 日時     1月19日(土)  13:30~

 集合場所  万屋生活館

  宇宿校区は、空港周辺からアヤマル岬まで広範囲な校区です。大変遺跡が多く

 シマの歴史を探るには、とても興味深い集落です。是非皆さまご参加してみてください。

  

  
   

Posted by DEI  at 15:16Comments(0)事務局から

2013年01月10日

拓く 5

こんにちは(^^) 拓くシリーズ、やっとやっと折り返しの5回目です

資料を読み返しながら、記憶を引き出しているのですが…
すぐすぐには思いだせないもので、資料やメモ書きした事が頼りのレポートになります


女性神役継承と親族組織 ―奄美大島宇検村の場合―
琉球大学院生 田中聡子さんの報告です

これまでのノロの研究や先に紹介しました津波高志教授の「血筋から家筋への継承の変容」研究をふまえて、宇検村ではどうか?ということを、聞き取り、検証。再度ノロについて調査しました。

ノロとはどういった神か? 本によっても人によっても答えが微妙に違っていて、捉え方も人それぞれ。。
一言でノロとはこうです と応えられる器量は私にはありません。
私は、政治組織の一部という風に捉えている感が大きいです。
韓国ドラマの「チャングム」を見ていて、琉球王府におけるノロ組織も、こんな感じだったのかなぁ~なんて、思ったりしてます。

ここは資料から抜粋しましょう
『ノロとは、奄美、沖縄地域にみられる村落祭祀を司る者である。奄美諸島は15世紀中頃から琉球王府の支配下にあり、16世紀以降、神役組織をはじめ、王府の諸制度が奄美にも導入された。
奄美地域の各地域で琉球王府からの辞令書がみつかっており、沖縄地域と同様、奄美地域においても琉球王府による、女性神役を通じて広範囲な地域の統轄を目的としていたのではないかと考える。』

1960年代から、多くの研究者によって、ノロについては研究がされています。
現在はほとんどの集落で、後継者が居ないことを理由に祭祀が中断、断絶しています。
衰退の理由が、「後継者」ということも 少し気になりますね。
社会的な事もそこには当然含まれているでしょう。
そこから色々と考えることも多いですね(^^)

話がそれました・・・
で・・・

田中さんは、2011年までノロ祭祀が行われていた阿室集落で聞き取りを行いました。
昭和33年にノロの役を引き継がれた方からのお話です。
資料には、詳しく書かれてますが、省略して紹介させていただきます。

阿室では、ノロ役の方が亡くなってから、次の継承者を探します。
前任者が亡くなった時、親族(ヒキ)で相談して、次のノロ役を決めます。
夫のお母さん、つまり義母がいいのでは、と決められましたが、義母は高齢で、またすぐに次の継承者を探すことになるというので、話者がノロ役を継承しました。
何名か候補者もいましが、集落に住んでいない。ノロの仕事は重荷だ、と断られることがあったそうです。

また、継承が決まってから、ユタ神様に前任者との相性を占ってもらう、ということがあったそうです。
相性はいいと判断され、昭和33年から、現在までノロとしての神役を司っています。

前任者のノロ役の継承についても、調査されていますが。。
申し訳ありません。。 資料からはちょっと理解できませんでした(大泣)
本当にスミマセン(>_<)  ブログ書き終わったら、資料は貝塚に置いておきますので(@_@;) 

詳しく読みとることはできませんでしたが、、、
嫁ぎ先にはノロが居なかった。
現在のヒキのノロ役を継承している。
これだけは、どうにかこうにか、資料からわかりました。本当にすみません。


聞き取り調査から・・・
現ノロは、津波教授の研究結果同様「ヒキ、家筋集団による継承」であることがわかりました。
前ノロは、先の結果とは、違ったことがあるのではないか?現段階では、まだ継承のはっきりとした事がわからない
というふうにまとめられています。


今回の調査から、先行研究との違うところや、今後検証するべきことも見えてくることもあり、衰退したとはいえノロの研究はやっぱり楽しそうだなぁ~ と思いました(私の感想)
ユタ神さまとの関係性も いつも比較して語られる両者が対等な形で語られていて、とても興味深く感じました。

とっても若く初々しい田中さん! 今後も研究頑張ってください!
私も、ノロとは何か? ここをもう一度よく勉強します!(^^)! 
 
もし私がノロを研究するならば・・ 
「笠利においてノロは存在したか? 存在したとしても宗教的な立場として定着していたのか?」
老後のお楽しみですかね・・? その前の知識が足りないよ~(@_@;)

また、6までしばらくお待ちください(^^) ではでは。  会員の本間由美子でした

 





  

Posted by DEI  at 13:30Comments(0)

2013年01月05日

遅ればせながらの新年のあいさつ

明けましておめでとうございます
文化財サポーターディディディ
ブログ「知る人ぞ知る宇宿貝塚史跡公園」
どうぞ、よろしくお願い致します


今年の新年号の新聞も、まだゆっくり読めていませんが、、、
奄美群島日本復帰60周年の事が大きく出ていますね(^^)
復帰運動の事はあまりよく知らないので、この機会に学びたいと思います

昨年春から公民館講座「復帰運動の頃の笠利を学ぶ」を受講していたので
そこで聴いた話を、この場を借りて紹介していこうかとも思っています

とりあえずは・・・「拓く」をあと4つ書かないと(>_<) 

今年も、えっちらおっちら、頑張ります♪
皆様、どうぞヨロシクお願いします  
       会員 本間由美子

  

Posted by DEI  at 10:12Comments(2)

2012年12月25日

拓く 4

こんにちは、会員の本間由美子です
不定期「拓く」シリーズ、ようやく4人目で、だんだん記憶も薄れてきてます。。
足早にいきましょう(>_<)

徳之島郷土研究会会員の松山哲則さんの
「基礎史料としての明治12年大島郡竿次帳について」の報告でした

竿次帳(さおつぎちょう)とはどういうものか、何が書いてあるのか
また、そこからどういった事が読み取れるか、といった内容でした


『明治12年大島郡竿次帳』
平成19年に茨城県の筑波大学で発見されました、明治期に作成された貴重な史料です。
23年に奄美関係者が調査や収集、写真撮影しデジタル化する、ことなどが行われました。


どういった代物かというと・・・ 
明治12年に鹿児島県が地券台帳の作成のために、この土地は誰のもので、何に使われているのか、といような事が記してあります。  
その後、明治22年に地券制度が廃止され、土地台帳規則された時の基礎資料にもなっています。

なんだか、これだけでも得体の知れない単語が多くて、私には難しく感じてしまうのですが…
土地税を納めさせるために、しっかり土地を調べた。んだと思います(ちがうかな??)
「明治期の土地の事が詳しく書かれてある資料」 程度でかんたんに理解しています。


何が書かれてあるかというと・・・
竿次帳には、「字」「地番」「地種(官有地か民有地か)」「反別(面積)」「持主姓名」が記載されています。

報告の内容は、この5つの項目をひとつづつ取り上げて、現在とどう変化したのか、中身から何が読み取れるか、今後の研究にどのように活用できるかといった濃い内容のものでした。 

「字」については、享保12年(1727年)から、明治12年の竿次帳、昭和27、58年と比較。
4つの時代とも字名がほとんど変わないということがわかりました。
 
「地番」は、字ごとにつけられた番号です。
今でも字地図には、ひとつひとつ番号が記載されていますが、この番号の事でしょうか??
ちょっとよくわかりませんでした(*_*) すみません。今度、何かの機会があったら、色々きいてみようと思います。

「地種」は、民有地か官有地かということがわかります。
現在は地目(地目)ともいわれ、その土地がどういう使われ方をしているのかがわかります。
畑、荒田、藪、宅地、墳墓地、海岸空地・・・などなど、細かく記載されています。
その土地が、現在とどう変容したかが、よくわかる項目ともいえます。
今後、町並みの変化を調査するときなど、大いに役立ちそうです。

「持主姓名」については、「平民苗字必須義務令」が明治8年に出されてわずか数年で、竿次帳に姓名が記載されています。
今後、姓名についての研究をする時など、大変貴重な資料としても活用されることでしょう。


以上、簡単ではありましたが、このへんでレポートは終わりにしたいと思います。 

感想は・・・
チョット(うそ、とても)難しかったです。が、どうにか私なりに理解できたと思います。
ほんの一部分理解できたら、私は充分満足です(^。^)
こういった貴重な資料が現存していて、これまで解らなかったようなことが、わかる。 
これってすごくワクワクする話だな~ と思いました(^^)

そして、これから「研究することの意味や意義」を教えてくれた、松山さんどうもありがとうございました(^^)



明治12年のシマと現在では、かなり形が変わっていると思うんです
ちょっと過去のシマを知ることの可能性が、さらに広がるのですね!(^^)!
今、行われています、宇宿集落文化的景観調査でも、竿次帳が活躍しているそうですよ!

これから、頻繁に耳にすることになるでしょう 「竿次帳」 さおつぎちょう 
に関する、かんたんレポでした。 中途半端でほんとスミマセン(>_<)(>_<)

では、皆様よいお年を(@^^)/~~~

追申。。 本日(25)は宇宿貝塚、笠利歴民館、奄美博物館は入館無料です
      「奄美群島 日本復帰」 記念日なので(^。^)





  

Posted by DEI  at 14:35Comments(2)

2012年12月11日

今月の予定は・・・

こんにちは(^<^) 会員のHです!

私の周りでは、なんだか慌ただしくて「あぁもう師走か~」って感じの今日この頃です。
私は、まぁ、いつも、だいたい暇ですけどね(゜-゜)

大晦日(12月31日)を『クンチ』と言うらしいですよ
なんでも、旧暦では29日が大晦日になる日が多いから、とか。。。

目の前にある、奄美市教育委員会からもらえた、行事カレンダーに書いてあります。
行事の解説はもちろん、他にも季節の花や、季節のシマジュウリのレシピに、干潮満潮の時刻。
25日は日本復帰の日、29日は豚潰し・門松・ウラジロの用意、なんてことまで教えてくれます。
 
3月まで使えて、なにかと便利なカレンダーです。
来年度もあるといいですね(^^) 

個人的な予定は、16日選挙に、23日のギターパンダか…(ギタパンの熱狂的ファンが、約2名ほどディディディに在籍してるんですよね~ 皆様もよろしかったら(・。・; 


  そして!! 15日(土)は公民館講座です!
  集合場所は宇宿貝塚  午後1時半から です。
  前回、宇宿集落を半分しか周りきれなかったので、再び宇宿集落を散策します。
 

奄美新聞にも掲載されてましたが、先日、宇宿集落文化的景観調査の中間報告会っていうのが、集落の公民館であったんですよ(^^) 
民家の構造や高倉、ソテツ畑や、古地図や竿次帳からみえる近代の集落形成の調査が、専門家によって行われていまして、その時の詳しい話なんかが、中山先生から聞けるんじゃないかな~  と勝手に期待しています!(^^)!

前回行きました、国指定文化財の泉家住宅の床下には、なにげに石器が置いてあったり、手水鉢の土台にもニャーワリ石っていう、貝を割っていた石器なんかが使われていたりして、驚いたんですけど。 
あとで聞いたら、古墳時代相当期のものらしいです(>_<)  

埋まっているはずのものが、なんで現在の庭先にあるかというと、家を建てるときに敷地内の土(砂地ですけど)を掘り下げて、掘った土を周囲にグル~っと盛って、土塁にしているらしいですよ。
宇宿集落の特徴らしいですね(^^) なるほど~
その時に出てきた石器が、庭で飾られてるらしいです(゜-゜) すごくないですか?? 宇宿・・・
「土器でままごとしてたよ」なんて話も聞いたことあるし(笑)

こんな、驚きの話が、他にもたくさん聴けると思います(^^)  
皆様、どうぞご参加あれ!! 





  

Posted by DEI  at 13:26Comments(5)

2012年12月07日

これまた興味深々なお話会が・・・

みなさん、こんにちは。
今日の新聞見ました? 私(本間由美子)見ました。 南海の方。

グスクの話がのってましたね(^^)
奄美で稲作が始まったのが、中世のいわゆるグスク時代。
なんでも、赤木名城や喜界島の中世の遺跡から稲の種子が出てるそうですよ。

へぇ~ なるほど~
稲作を誰がもたらしたのかしら??
稲作儀礼行事なんかは、もうこの辺りから、ずーーっと継承されてるのでしょうか??(ショチョガマとかね)
色々と興味はつきませんが・・・

そうそう赤木名城といえば、近所に代官所跡がありますね(^^)
そこから、海岸までの集落内の屋敷囲い
タテタテ、ヨコヨコと知覧武家屋敷のような立派な町並み
素晴らしい景観です

公民館講座でも3度にわたって赤木名を歩きましたが、かなりの好評でしたよ(^◇^)
笠利は、自慢できる場所が多くて、本当に誇りに思います

明日、またまた奄美博物館で面白そうな報告会がありますよ)^o^(
新聞の10面に載ってました(^^)

「薩摩藩代官が滞在した鹿児島的景観のシマ~奄美群島における仮屋所在集落の比較検討会」
場所 奄美博物館  午前11時~午後5時まで

詳しくは、新聞をご覧ください(^^)

なんか、仮屋(代官の住む屋敷、代官は何年か交代で本土から赴任してきます)のある集落の研究者、大島、喜界、徳之島、沖永良部から集まって、情報交換するらしいですよ(p_-)

これは、行きたい。。。 
自分とこを知るのもいいですけど、よその土地の事も知るとさらに面白い!! ことは間違いない。
タイトルの~前半部は「赤木名集落」ってことですかね?? 
他の場所も赤木名みたいな景観なのかしら??


面白そう~ 行きたいな~  あー 明日は午前中は保育園のクリスマス会で、終わったら子供も一緒に帰宅かぁ~ あー行けるわけがない(--〆)


興味のある方も無い方も、ぜひ行って見て聴いてきてくださいませ♪
で、あとで私にどんなだったか教えて下さい よろしくお願いします!(^^)!




  

Posted by DEI  at 12:11Comments(0)

2012年12月05日

拓く 3

そうだった!! 忘れてた!! 私達ディディディは宇宿貝塚を拠点に活動しているサークルだった、ってことを。。。

ということで、本日は、お待ちかね「考古」の話ですよ)^o^( 

瀬戸内町教育委員会の考古学専門の方、鼎 丈太郎さんによる
「奄美大島南部におけるゴホウラ資料~表面採集状況及び若干の考察~」
という報告でした。

私にとっては、若干どころか、もうこの報告を聞いてテンションあがりつけて
隣に座っていた、ヒギャ自慢プロジェクターの女性の方に、延々話かてしまい
大変、迷惑をかけてしまう状況にまで(>_<) 
しーまアワード三位おめでとうございます!(^^)!
私も負けじと、今後も文章のみで発信していきます!! 

えーと、話をもどして。。。
内容は、瀬戸内町内の遺跡の現況紹介と、「貝交易」に使われていただろうゴホウラという貝が、瀬戸内町内で表採されているという報告でした。

「貝交易」を簡単に説明しますね
弥生時代~古墳時代(縄文までさかのぼるのかな?細かなとこまでは、スミマセンがわかりません)に、日本本土で沖縄・奄美産の貝製品が遺跡から出土されることから、南島産の貝が交易品として重宝されていたどうということ。
また、南島の遺跡では、土器の形や文様が本土の物とよく似ていることから、本土と南島の間で、人々の交流があっただろう、ということがわかっています。

貝製品の主なものが「貝輪」です。オオツタノハ、イモガイ、そしてゴホウラを加工して、貝の輪っか(今流行りのブレスレットですね)が本土の遺跡(北九州が多い)からはよく出ています。
埋葬された人骨の腕にはめられているものが多いのも、何かしらかの意味があったのでしょうね。
一説には「魔除け」として、はめられていたといわれています。

で、ゴホウラですが、沖縄では貝集積遺構(一か所に集められているあと)が30遺跡、100基もあるそうです
では、奄美はどうか?となりますと・・・ 意外と少ない。。。 
何故だ? 本土と沖縄の中継地点の奄美では何故少ないのか?? というのが現状でした。

でした。。 でした。 ですよ(p_-) 

現在、奄美大島の遺跡といえば、だいたいが、北部に集中しています。
発掘調査が盛んだったからです。そこからは、ゴホウラはあんまし出ていないのですね。
しかし、なんと!! 南部の瀬戸内町では、ゴホウラが結構な数で表採されているらしいのです!!

凄くないですか?! 表採ですよ。表面に出ている物を採集する。略して「表採(表面採集)」
埋まっているのではなく、落ちてるって話じゃないですか(*_*) 
掘ったら、どれだけの数がでてくるんでしょうね~ なんか、ワクワクする話ですね!(^^)!

鼎さんの考察によると、奄美ではゴホウラの生息しやすい場所が少なく、大島海峡や焼内湾に多く生息していることから、生息する環境が南部にはあるのだろう、とのこと。
ゴホウラの方言名が得られないことから、食料など生活に密着したものでは無いだろうとのこと。(食料では無いのに、なぜ陸地で表採されるか?加工用だったのだろう、という推察)

南部のリアス式海岸は、今でも避難港として良好な場所であり、弥生時代の人々にとっても、格好の中継地・港であっただろうとのこと。
沖縄での遺跡同様、死貝も多く確認できる。死貝も貴重なものだったのだろうと推察。 
ほとんどの貝に、何らかの加工あとが見られる。
そのことから「貝交易」と深い関連性が高いだろうとのこと。

でした!(^^)! すっごいですね~ 瀬戸内町!!! 
町内史跡マップももらえたのですが、縄文の嘉徳遺跡を筆頭に、52も遺跡があるみたい(^。^)
だいたいの集落では、中世のカムイヤキや青磁のかけらが表採されているそうです。

これからの調査や研究に、目が離せません!! 

そして、追記で。。 
報告者の鼎さんは、笠利出身。妖怪でおなじみの民俗の町さんは、与論出身。隣に座っていたヒギャ自慢プロジェクトの方は、県外出身だそうで、町外出身の方々と共に支え合って、元気を発信している瀬戸内町は素晴らしいですね~ 
しーまブログ「ヒギャ自慢プロジェクト」 おすすめブログです!! って紹介しなくても当然知ってると思いますけど(・。・;

私の母は瀬戸内町出身なので、帰省するたびに過疎化が深刻なのが、痛いほどわかります。
私のなかのシマ(故郷)といえば、瀬戸内なんですよね(>_<) 小さい頃から母の集落の事を、シマって呼んでましたね~
瀬戸内町を盛り上げてくれている、プロジェクターさん達、ありがとうございます(^^)
これからも、瀬戸内町の発展を願ってます)^o^( 

カサンとヒギャの逢いの子 会員の本間由美子でした(^^)










  

Posted by DEI  at 13:48Comments(0)

2012年11月30日

拓く 2

こんにちは、ディディディ会員の本間由美子です。
前回の続きです。 
11月23日に宇検村で開催された、琉球大学史学会奄美大会のちょこっと紹介です。

「奄美における女性神役の継承方式 血筋から家筋への変容」
と題して、琉球大学名誉教授の津波高志さんの基調講演がありました。

簡単に内容を説明すると
「ノロの継承」という点にスポットをあて、調べてみたら、これまで云われてきていた通説とは、どうも違うぞ。
という事なのですが。。。

これまでの研究をまず簡単に説明しましょうね
(できるかな~ ちゃんとうまく伝えられるのか私?)
ま、皆さんは注意してくださいね(^^)

ノロの説明要ります?? 飛ばしてイイですか??
「いいでーす」と脳内から返事がでたので、遠慮なく飛ばします。

では、古琉球(薩摩侵攻以前の琉球のこと)の朱印状から
ノロの継承は、叔母から姪  母から娘 へと血筋で継承されていたのだろう
という事がわかります。

朱印状とは、いわゆる「辞令書」と言われている 琉球王が「○○集落の○○ノロから ××集落の××さんへ、ノロの地位を引き継ぐことを認めます」と書いてある、令状のことです。琉球王の赤い印鑑が押してあるので「朱印状」といいます。

話がそれますけど、すごいんですよ。これ! 
なんと、古琉球の時代の物は、奄美でしか残ってないんですよ(@_@;)
沖縄では、 戦火の元に焼かれてしまって、残っていないだそうです。

しかも、使われている紙は京都で作られていて、当時、琉球が日本の物や文化を、大いに取り入れていたということが、わかるんですね~ すごいでしょ!!

話を元に戻しましょうね 
ノロの研究は、色んなかたがされているのですが、どうも「継承」に重点をおいた研究は、ちゃんとされていないぞ
ということで、津波教授は大和村のノロを対象に、聞き取りや考査したわけです。

そうすると、ノロの継承は「ヒキ」といわれる家筋の集団の中に嫁にきた人物が、その家筋に引き継がれていたノロの地位を継承する。ということがわかった。 という結果です。

正直申します。 家筋ってなんだろう??  集団って…?  
簡単に○○家に嫁に行く。とか家単位ではなさそうですね。本家でも分家でも○○家の親戚ならオッケーということでしょうかね?

一番かんじんなところが、全く理解できなかったわけなんですが。。。。
ひらきなおりですが、そんなこと、わからなくてもいいんです!(いいってこともないか(;一_一)


今回の報告で、私が皆さんにお伝えしたいことは、ここからですよ(^^) 

では、一体いつから、ノロ継承が「血筋」から「家筋」へと変わっていったか、変容したか
の問題です。 ここが重点ですよ(^^)

喜界島の勝家という家に残る「勝家文書」の中に、変容を示すことが書いてあるというのです。

1728年頃(薩摩藩の時代)に、喜界島の大アム(村々のノロを管轄している役?)の継承について、跡継ぎが居ない、などのごたごたがあって、血筋にこだわらず家制度による継承の措置がとられた。
(2012・1・28 人文科学とコンピューター研究発表会 でもらった 弓削政己さんの資料を参考)

こういうふうに(どういう風に? 詳しく知りたいかたは、『奄美郷土研究会会報40号を、ぜひどうぞ)
継承が変容していったのだそうです。
さほど、強調するほどのことでもなかったですね(;一_一)

津波教授は、こう言われました。
「奄美文化の研究は、琉球文化ばかりを追い求めているいるように、思えてならない。 
奄美は400年も薩摩藩の支配下に置かれ、文化の変容が、必ずあっただろう」
「もっと自分たちの文化というものを、しっかりと見つめ直さなければ」

「全くその通りだ」と思ったお言葉で、私もこれだけを皆様にお伝えしたかった・・・ だけの話です。今日は。。  

私たちの潜在意識の中には、確かに「琉球的なものを、追い求めている」と思います。
おおまかな年数ですが、奄美の歴史年表では、琉球時代はたったの150年
薩摩時代は400年 なのですね(@_@;)  驚きじゃないですか?

それなのに、何故、琉球恋しなんでしょうね 
そのへんの、人々の認識もぜひ、研究してほしいですね♪

少々尻切れトンボになりますが、リポートは以上です♪ 
少しは拓けましたでしょうか??  
やっぱり意味うつらんかった…? 実際聴くのが一番いいよね(゜-゜)
間違いは、ビシビシと指摘していただけたらありがたいです(^^)

ではでは。。。 またの拓きシリーズまで(^.^)/~~~
 









  

Posted by DEI  at 12:47Comments(1)

2012年11月26日

拓く 1

    
まず最初に、えらぶ郷土研究会の先田光演さんによる「宇検村の古文書について」基調報告がありました。

宇検村が発刊している「奄美大島屋喜内の文書」という資料集に沿って、古文書から、どういうことが読み取れるか、といった内容のお話でした。

ちなみに「古文書」は「こもんじょ」と読みます。私はずっと「こぶんしょ」と思っていて、ひとつ勉強になりました。
古文書を見て、何が書いてあるのか理解できる人はそうそういないでしょう。
これが読めるようになると、どれだけ世界が広がることでしょうね。

過去の研究のなかで、間違った古文書の解読がなされていて、今もう一度正しく解読する研究がされています。
そのなかで、笠利にもゆかりのある「ユワンフウヤ」の伝承の話が、とても興味深かったです。

ユワンフウヤといえば、笠利では「昔ユワン(用安集落)という地を治めていた豪族」として定着しています。
これとよく似た伝承が沖縄本島にもあります。
いつも、このユワンが笠利の用安か、宇検の湯湾か、どっちが本物かといった議論が、昔からあるのですが。。

どうして、笠利の用安と定着していったのか? 
その過程の説明ですが・・・  ここからは伝言ゲームになります。
もしかしたら、先田さんの話を聞いた私が、間違った解釈をして皆様にお伝えするかもしれません。
注意して下さいね。

宇検に残る古文書の中に、湯湾の「白井家文書」というものがあります。
白井さんというお宅に、昔からある古い書物なんでしょうね、きっと。

その中に「馬氏」という琉球系統の家と、係わりがある事が書いてあるそうです。

「馬氏系譜」これも古文書なのですが、馬家一族の家系図だったり起こった出来事なんかが書いてあるんでしょう、きっと。
その中にユワンフウヤと思われる人物がいるようです。

ユワンフウヤが実在したかどうかは、分りませんが「伝承をもつ家(馬氏)と係わりがある家(白井家)」が、宇検の湯湾にあったということは古文書からわかります。

薩摩藩時代の文書にも「湯湾嶽」という記述がいくつか見られます
一例⇒ 1862年 「與湾大親の遺骨を湯湾嶽から琉球上泊廟所に移す」とか。


ここまで読んでて、意味解りましたか?? 複雑すぎて書いてる私も、訳がわからなくなってきています(笑)
要は、ユワンフウヤの伝承は笠利か宇検かどっちが本物? という答えは宇検。ということになりましょうか。


大正時代に坂口徳太郎という人物が『奄美大島史』という本の中で、与湾を笠利の用安、と間違えて解釈し記載しました
そこから、近代の伝言ゲームが始まります。

この『奄美大島史』を元に
昭和24年 昇曙夢が『大奄美史』の中でも 用安と記載。
さらにそれを元に『笠利町史』も用安と記載。
そして、今に至る・・・ という経過をたどっている「ユワンフウヤの伝承」のお話でした。

 

そういえば、先田さんからのお願いがありました。
「今日、ここで聴いた話を、ぜひ他所でも話してください。そうすると、面白いことに話がひとり歩きをし、また聴きした人のところでさらにひとり歩きをし、何回かひとり歩きをすると、真実が嘘になる。これの一番いい例が『与湾大親』です。ぜひ話してみて下さい」 

との事です(笑)   なので、ここまで読んでくれた方は、誰かに話してみて下さいね(^.^) 次の伝言者はあなたです!!

はぁ~ 説明とか要約って難しいですね(・。・;  
感想は・・・   他にも古文書の話がきけて、面白かったです!! 紹介しきれなかった話は、またの機会に!!

私の説明に、間違いに気付いた方が居られましたら、コメント欄で訂正、ご指摘よろしくお願いします。 

一発目から、全く拓くことができなかった、会員の本間由美子でした(^.^)/~~~ 私なんて、こんなモンさ(笑)




















  

Posted by DEI  at 16:06Comments(1)

2012年11月26日

カッコつけると「序章」っていうやつ

こんにちは 会員の本間由美子です
 
さっきまで書いていた文章が、急に消えてしまって
ちょっとばかしテンション下がりましたが、気を取り直して
今、ちょうど今、書きなおしているところです(;一_一)

そんなパソコンの苦手な私の得意技は「何食わぬ顔」
先週金曜日は、おススメした博物館ではなく
得意技の何食わぬ顔をして、宇検村へ行ってまいりました

相当迷ったのですが、宇検村での開催ということから一票差で、宇検を選びました
正直言うと、他の場所であったら事情が変わっていたと思います

好きすぎる宇検村 みんな大好き宇検村 
何か、私の心を惹きつける土地です

 
11月23日 宇検村「元気の出る館」という、本当にいつも元気の貰える場所で、琉球大学史学会による「奄美研究の地平を拓く」と題した研究発表会がありました。 
8人の研究者による研究報告があったのですが、どの方の話もとても面白く、目からウロコが何枚も落ちてしまい、もう元気をたっくさんもらって帰りました。
せっかく飛び出たウロコも落としっぱなしでは、もったいないということで、資料をもう一度読み直しながら、皆さんにもちょっとづつ内容の紹介や感想を簡単に、この場で書いていこうかな、と思います。

ちゃんと続くかどうか分りませんけど(笑)
まぁ、頑張ります(^^) 




 


 


  

Posted by DEI  at 13:51Comments(0)