2012年12月25日
拓く 4
こんにちは、会員の本間由美子です
不定期「拓く」シリーズ、ようやく4人目で、だんだん記憶も薄れてきてます。。
足早にいきましょう(>_<)
徳之島郷土研究会会員の松山哲則さんの
「基礎史料としての明治12年大島郡竿次帳について」の報告でした
竿次帳(さおつぎちょう)とはどういうものか、何が書いてあるのか
また、そこからどういった事が読み取れるか、といった内容でした
『明治12年大島郡竿次帳』
平成19年に茨城県の筑波大学で発見されました、明治期に作成された貴重な史料です。
23年に奄美関係者が調査や収集、写真撮影しデジタル化する、ことなどが行われました。
どういった代物かというと・・・
明治12年に鹿児島県が地券台帳の作成のために、この土地は誰のもので、何に使われているのか、といような事が記してあります。
その後、明治22年に地券制度が廃止され、土地台帳規則された時の基礎資料にもなっています。
なんだか、これだけでも得体の知れない単語が多くて、私には難しく感じてしまうのですが…
土地税を納めさせるために、しっかり土地を調べた。んだと思います(ちがうかな??)
「明治期の土地の事が詳しく書かれてある資料」 程度でかんたんに理解しています。
何が書かれてあるかというと・・・
竿次帳には、「字」「地番」「地種(官有地か民有地か)」「反別(面積)」「持主姓名」が記載されています。
報告の内容は、この5つの項目をひとつづつ取り上げて、現在とどう変化したのか、中身から何が読み取れるか、今後の研究にどのように活用できるかといった濃い内容のものでした。
「字」については、享保12年(1727年)から、明治12年の竿次帳、昭和27、58年と比較。
4つの時代とも字名がほとんど変わないということがわかりました。
「地番」は、字ごとにつけられた番号です。
今でも字地図には、ひとつひとつ番号が記載されていますが、この番号の事でしょうか??
ちょっとよくわかりませんでした(*_*) すみません。今度、何かの機会があったら、色々きいてみようと思います。
「地種」は、民有地か官有地かということがわかります。
現在は地目(地目)ともいわれ、その土地がどういう使われ方をしているのかがわかります。
畑、荒田、藪、宅地、墳墓地、海岸空地・・・などなど、細かく記載されています。
その土地が、現在とどう変容したかが、よくわかる項目ともいえます。
今後、町並みの変化を調査するときなど、大いに役立ちそうです。
「持主姓名」については、「平民苗字必須義務令」が明治8年に出されてわずか数年で、竿次帳に姓名が記載されています。
今後、姓名についての研究をする時など、大変貴重な資料としても活用されることでしょう。
以上、簡単ではありましたが、このへんでレポートは終わりにしたいと思います。
感想は・・・
チョット(うそ、とても)難しかったです。が、どうにか私なりに理解できたと思います。
ほんの一部分理解できたら、私は充分満足です(^。^)
こういった貴重な資料が現存していて、これまで解らなかったようなことが、わかる。
これってすごくワクワクする話だな~ と思いました(^^)
そして、これから「研究することの意味や意義」を教えてくれた、松山さんどうもありがとうございました(^^)
明治12年のシマと現在では、かなり形が変わっていると思うんです
ちょっと過去のシマを知ることの可能性が、さらに広がるのですね!(^^)!
今、行われています、宇宿集落文化的景観調査でも、竿次帳が活躍しているそうですよ!
これから、頻繁に耳にすることになるでしょう 「竿次帳」 さおつぎちょう
に関する、かんたんレポでした。 中途半端でほんとスミマセン(>_<)(>_<)
では、皆様よいお年を(@^^)/~~~
追申。。 本日(25)は宇宿貝塚、笠利歴民館、奄美博物館は入館無料です
「奄美群島 日本復帰」 記念日なので(^。^)
不定期「拓く」シリーズ、ようやく4人目で、だんだん記憶も薄れてきてます。。
足早にいきましょう(>_<)
徳之島郷土研究会会員の松山哲則さんの
「基礎史料としての明治12年大島郡竿次帳について」の報告でした
竿次帳(さおつぎちょう)とはどういうものか、何が書いてあるのか
また、そこからどういった事が読み取れるか、といった内容でした
『明治12年大島郡竿次帳』
平成19年に茨城県の筑波大学で発見されました、明治期に作成された貴重な史料です。
23年に奄美関係者が調査や収集、写真撮影しデジタル化する、ことなどが行われました。
どういった代物かというと・・・
明治12年に鹿児島県が地券台帳の作成のために、この土地は誰のもので、何に使われているのか、といような事が記してあります。
その後、明治22年に地券制度が廃止され、土地台帳規則された時の基礎資料にもなっています。
なんだか、これだけでも得体の知れない単語が多くて、私には難しく感じてしまうのですが…
土地税を納めさせるために、しっかり土地を調べた。んだと思います(ちがうかな??)
「明治期の土地の事が詳しく書かれてある資料」 程度でかんたんに理解しています。
何が書かれてあるかというと・・・
竿次帳には、「字」「地番」「地種(官有地か民有地か)」「反別(面積)」「持主姓名」が記載されています。
報告の内容は、この5つの項目をひとつづつ取り上げて、現在とどう変化したのか、中身から何が読み取れるか、今後の研究にどのように活用できるかといった濃い内容のものでした。
「字」については、享保12年(1727年)から、明治12年の竿次帳、昭和27、58年と比較。
4つの時代とも字名がほとんど変わないということがわかりました。
「地番」は、字ごとにつけられた番号です。
今でも字地図には、ひとつひとつ番号が記載されていますが、この番号の事でしょうか??
ちょっとよくわかりませんでした(*_*) すみません。今度、何かの機会があったら、色々きいてみようと思います。
「地種」は、民有地か官有地かということがわかります。
現在は地目(地目)ともいわれ、その土地がどういう使われ方をしているのかがわかります。
畑、荒田、藪、宅地、墳墓地、海岸空地・・・などなど、細かく記載されています。
その土地が、現在とどう変容したかが、よくわかる項目ともいえます。
今後、町並みの変化を調査するときなど、大いに役立ちそうです。
「持主姓名」については、「平民苗字必須義務令」が明治8年に出されてわずか数年で、竿次帳に姓名が記載されています。
今後、姓名についての研究をする時など、大変貴重な資料としても活用されることでしょう。
以上、簡単ではありましたが、このへんでレポートは終わりにしたいと思います。
感想は・・・
チョット(うそ、とても)難しかったです。が、どうにか私なりに理解できたと思います。
ほんの一部分理解できたら、私は充分満足です(^。^)
こういった貴重な資料が現存していて、これまで解らなかったようなことが、わかる。
これってすごくワクワクする話だな~ と思いました(^^)
そして、これから「研究することの意味や意義」を教えてくれた、松山さんどうもありがとうございました(^^)
明治12年のシマと現在では、かなり形が変わっていると思うんです
ちょっと過去のシマを知ることの可能性が、さらに広がるのですね!(^^)!
今、行われています、宇宿集落文化的景観調査でも、竿次帳が活躍しているそうですよ!
これから、頻繁に耳にすることになるでしょう 「竿次帳」 さおつぎちょう
に関する、かんたんレポでした。 中途半端でほんとスミマセン(>_<)(>_<)
では、皆様よいお年を(@^^)/~~~
追申。。 本日(25)は宇宿貝塚、笠利歴民館、奄美博物館は入館無料です
「奄美群島 日本復帰」 記念日なので(^。^)
2012年12月11日
今月の予定は・・・
こんにちは(^<^) 会員のHです!
私の周りでは、なんだか慌ただしくて「あぁもう師走か~」って感じの今日この頃です。
私は、まぁ、いつも、だいたい暇ですけどね(゜-゜)
大晦日(12月31日)を『クンチ』と言うらしいですよ
なんでも、旧暦では29日が大晦日になる日が多いから、とか。。。
目の前にある、奄美市教育委員会からもらえた、行事カレンダーに書いてあります。
行事の解説はもちろん、他にも季節の花や、季節のシマジュウリのレシピに、干潮満潮の時刻。
25日は日本復帰の日、29日は豚潰し・門松・ウラジロの用意、なんてことまで教えてくれます。
3月まで使えて、なにかと便利なカレンダーです。
来年度もあるといいですね(^^)
個人的な予定は、16日選挙に、23日のギターパンダか…(ギタパンの熱狂的ファンが、約2名ほどディディディに在籍してるんですよね~ 皆様もよろしかったら(・。・;
そして!! 15日(土)は公民館講座です!
集合場所は宇宿貝塚 午後1時半から です。
前回、宇宿集落を半分しか周りきれなかったので、再び宇宿集落を散策します。
奄美新聞にも掲載されてましたが、先日、宇宿集落文化的景観調査の中間報告会っていうのが、集落の公民館であったんですよ(^^)
民家の構造や高倉、ソテツ畑や、古地図や竿次帳からみえる近代の集落形成の調査が、専門家によって行われていまして、その時の詳しい話なんかが、中山先生から聞けるんじゃないかな~ と勝手に期待しています!(^^)!
前回行きました、国指定文化財の泉家住宅の床下には、なにげに石器が置いてあったり、手水鉢の土台にもニャーワリ石っていう、貝を割っていた石器なんかが使われていたりして、驚いたんですけど。
あとで聞いたら、古墳時代相当期のものらしいです(>_<)
埋まっているはずのものが、なんで現在の庭先にあるかというと、家を建てるときに敷地内の土(砂地ですけど)を掘り下げて、掘った土を周囲にグル~っと盛って、土塁にしているらしいですよ。
宇宿集落の特徴らしいですね(^^) なるほど~
その時に出てきた石器が、庭で飾られてるらしいです(゜-゜) すごくないですか?? 宇宿・・・
「土器でままごとしてたよ」なんて話も聞いたことあるし(笑)
こんな、驚きの話が、他にもたくさん聴けると思います(^^)
皆様、どうぞご参加あれ!!
私の周りでは、なんだか慌ただしくて「あぁもう師走か~」って感じの今日この頃です。
私は、まぁ、いつも、だいたい暇ですけどね(゜-゜)
大晦日(12月31日)を『クンチ』と言うらしいですよ
なんでも、旧暦では29日が大晦日になる日が多いから、とか。。。
目の前にある、奄美市教育委員会からもらえた、行事カレンダーに書いてあります。
行事の解説はもちろん、他にも季節の花や、季節のシマジュウリのレシピに、干潮満潮の時刻。
25日は日本復帰の日、29日は豚潰し・門松・ウラジロの用意、なんてことまで教えてくれます。
3月まで使えて、なにかと便利なカレンダーです。
来年度もあるといいですね(^^)
個人的な予定は、16日選挙に、23日のギターパンダか…(ギタパンの熱狂的ファンが、約2名ほどディディディに在籍してるんですよね~ 皆様もよろしかったら(・。・;
そして!! 15日(土)は公民館講座です!
集合場所は宇宿貝塚 午後1時半から です。
前回、宇宿集落を半分しか周りきれなかったので、再び宇宿集落を散策します。
奄美新聞にも掲載されてましたが、先日、宇宿集落文化的景観調査の中間報告会っていうのが、集落の公民館であったんですよ(^^)
民家の構造や高倉、ソテツ畑や、古地図や竿次帳からみえる近代の集落形成の調査が、専門家によって行われていまして、その時の詳しい話なんかが、中山先生から聞けるんじゃないかな~ と勝手に期待しています!(^^)!
前回行きました、国指定文化財の泉家住宅の床下には、なにげに石器が置いてあったり、手水鉢の土台にもニャーワリ石っていう、貝を割っていた石器なんかが使われていたりして、驚いたんですけど。
あとで聞いたら、古墳時代相当期のものらしいです(>_<)
埋まっているはずのものが、なんで現在の庭先にあるかというと、家を建てるときに敷地内の土(砂地ですけど)を掘り下げて、掘った土を周囲にグル~っと盛って、土塁にしているらしいですよ。
宇宿集落の特徴らしいですね(^^) なるほど~
その時に出てきた石器が、庭で飾られてるらしいです(゜-゜) すごくないですか?? 宇宿・・・
「土器でままごとしてたよ」なんて話も聞いたことあるし(笑)
こんな、驚きの話が、他にもたくさん聴けると思います(^^)
皆様、どうぞご参加あれ!!
2012年12月07日
これまた興味深々なお話会が・・・
みなさん、こんにちは。
今日の新聞見ました? 私(本間由美子)見ました。 南海の方。
グスクの話がのってましたね(^^)
奄美で稲作が始まったのが、中世のいわゆるグスク時代。
なんでも、赤木名城や喜界島の中世の遺跡から稲の種子が出てるそうですよ。
へぇ~ なるほど~
稲作を誰がもたらしたのかしら??
稲作儀礼行事なんかは、もうこの辺りから、ずーーっと継承されてるのでしょうか??(ショチョガマとかね)
色々と興味はつきませんが・・・
そうそう赤木名城といえば、近所に代官所跡がありますね(^^)
そこから、海岸までの集落内の屋敷囲い
タテタテ、ヨコヨコと知覧武家屋敷のような立派な町並み
素晴らしい景観です
公民館講座でも3度にわたって赤木名を歩きましたが、かなりの好評でしたよ(^◇^)
笠利は、自慢できる場所が多くて、本当に誇りに思います
明日、またまた奄美博物館で面白そうな報告会がありますよ)^o^(
新聞の10面に載ってました(^^)
「薩摩藩代官が滞在した鹿児島的景観のシマ~奄美群島における仮屋所在集落の比較検討会」
場所 奄美博物館 午前11時~午後5時まで
詳しくは、新聞をご覧ください(^^)
なんか、仮屋(代官の住む屋敷、代官は何年か交代で本土から赴任してきます)のある集落の研究者、大島、喜界、徳之島、沖永良部から集まって、情報交換するらしいですよ(p_-)
これは、行きたい。。。
自分とこを知るのもいいですけど、よその土地の事も知るとさらに面白い!! ことは間違いない。
タイトルの~前半部は「赤木名集落」ってことですかね??
他の場所も赤木名みたいな景観なのかしら??
面白そう~ 行きたいな~ あー 明日は午前中は保育園のクリスマス会で、終わったら子供も一緒に帰宅かぁ~ あー行けるわけがない(--〆)
興味のある方も無い方も、ぜひ行って見て聴いてきてくださいませ♪
で、あとで私にどんなだったか教えて下さい よろしくお願いします!(^^)!
今日の新聞見ました? 私(本間由美子)見ました。 南海の方。
グスクの話がのってましたね(^^)
奄美で稲作が始まったのが、中世のいわゆるグスク時代。
なんでも、赤木名城や喜界島の中世の遺跡から稲の種子が出てるそうですよ。
へぇ~ なるほど~
稲作を誰がもたらしたのかしら??
稲作儀礼行事なんかは、もうこの辺りから、ずーーっと継承されてるのでしょうか??(ショチョガマとかね)
色々と興味はつきませんが・・・
そうそう赤木名城といえば、近所に代官所跡がありますね(^^)
そこから、海岸までの集落内の屋敷囲い
タテタテ、ヨコヨコと知覧武家屋敷のような立派な町並み
素晴らしい景観です
公民館講座でも3度にわたって赤木名を歩きましたが、かなりの好評でしたよ(^◇^)
笠利は、自慢できる場所が多くて、本当に誇りに思います
明日、またまた奄美博物館で面白そうな報告会がありますよ)^o^(
新聞の10面に載ってました(^^)
「薩摩藩代官が滞在した鹿児島的景観のシマ~奄美群島における仮屋所在集落の比較検討会」
場所 奄美博物館 午前11時~午後5時まで
詳しくは、新聞をご覧ください(^^)
なんか、仮屋(代官の住む屋敷、代官は何年か交代で本土から赴任してきます)のある集落の研究者、大島、喜界、徳之島、沖永良部から集まって、情報交換するらしいですよ(p_-)
これは、行きたい。。。
自分とこを知るのもいいですけど、よその土地の事も知るとさらに面白い!! ことは間違いない。
タイトルの~前半部は「赤木名集落」ってことですかね??
他の場所も赤木名みたいな景観なのかしら??
面白そう~ 行きたいな~ あー 明日は午前中は保育園のクリスマス会で、終わったら子供も一緒に帰宅かぁ~ あー行けるわけがない(--〆)
興味のある方も無い方も、ぜひ行って見て聴いてきてくださいませ♪
で、あとで私にどんなだったか教えて下さい よろしくお願いします!(^^)!
2012年12月05日
拓く 3
そうだった!! 忘れてた!! 私達ディディディは宇宿貝塚を拠点に活動しているサークルだった、ってことを。。。
ということで、本日は、お待ちかね「考古」の話ですよ)^o^(
瀬戸内町教育委員会の考古学専門の方、鼎 丈太郎さんによる
「奄美大島南部におけるゴホウラ資料~表面採集状況及び若干の考察~」
という報告でした。
私にとっては、若干どころか、もうこの報告を聞いてテンションあがりつけて
隣に座っていた、ヒギャ自慢プロジェクターの女性の方に、延々話かてしまい
大変、迷惑をかけてしまう状況にまで(>_<)
しーまアワード三位おめでとうございます!(^^)!
私も負けじと、今後も文章のみで発信していきます!!
えーと、話をもどして。。。
内容は、瀬戸内町内の遺跡の現況紹介と、「貝交易」に使われていただろうゴホウラという貝が、瀬戸内町内で表採されているという報告でした。
「貝交易」を簡単に説明しますね
弥生時代~古墳時代(縄文までさかのぼるのかな?細かなとこまでは、スミマセンがわかりません)に、日本本土で沖縄・奄美産の貝製品が遺跡から出土されることから、南島産の貝が交易品として重宝されていたどうということ。
また、南島の遺跡では、土器の形や文様が本土の物とよく似ていることから、本土と南島の間で、人々の交流があっただろう、ということがわかっています。
貝製品の主なものが「貝輪」です。オオツタノハ、イモガイ、そしてゴホウラを加工して、貝の輪っか(今流行りのブレスレットですね)が本土の遺跡(北九州が多い)からはよく出ています。
埋葬された人骨の腕にはめられているものが多いのも、何かしらかの意味があったのでしょうね。
一説には「魔除け」として、はめられていたといわれています。
で、ゴホウラですが、沖縄では貝集積遺構(一か所に集められているあと)が30遺跡、100基もあるそうです
では、奄美はどうか?となりますと・・・ 意外と少ない。。。
何故だ? 本土と沖縄の中継地点の奄美では何故少ないのか?? というのが現状でした。
でした。。 でした。 ですよ(p_-)
現在、奄美大島の遺跡といえば、だいたいが、北部に集中しています。
発掘調査が盛んだったからです。そこからは、ゴホウラはあんまし出ていないのですね。
しかし、なんと!! 南部の瀬戸内町では、ゴホウラが結構な数で表採されているらしいのです!!
凄くないですか?! 表採ですよ。表面に出ている物を採集する。略して「表採(表面採集)」
埋まっているのではなく、落ちてるって話じゃないですか(*_*)
掘ったら、どれだけの数がでてくるんでしょうね~ なんか、ワクワクする話ですね!(^^)!
鼎さんの考察によると、奄美ではゴホウラの生息しやすい場所が少なく、大島海峡や焼内湾に多く生息していることから、生息する環境が南部にはあるのだろう、とのこと。
ゴホウラの方言名が得られないことから、食料など生活に密着したものでは無いだろうとのこと。(食料では無いのに、なぜ陸地で表採されるか?加工用だったのだろう、という推察)
南部のリアス式海岸は、今でも避難港として良好な場所であり、弥生時代の人々にとっても、格好の中継地・港であっただろうとのこと。
沖縄での遺跡同様、死貝も多く確認できる。死貝も貴重なものだったのだろうと推察。
ほとんどの貝に、何らかの加工あとが見られる。
そのことから「貝交易」と深い関連性が高いだろうとのこと。
でした!(^^)! すっごいですね~ 瀬戸内町!!!
町内史跡マップももらえたのですが、縄文の嘉徳遺跡を筆頭に、52も遺跡があるみたい(^。^)
だいたいの集落では、中世のカムイヤキや青磁のかけらが表採されているそうです。
これからの調査や研究に、目が離せません!!
そして、追記で。。
報告者の鼎さんは、笠利出身。妖怪でおなじみの民俗の町さんは、与論出身。隣に座っていたヒギャ自慢プロジェクトの方は、県外出身だそうで、町外出身の方々と共に支え合って、元気を発信している瀬戸内町は素晴らしいですね~
しーまブログ「ヒギャ自慢プロジェクト」 おすすめブログです!! って紹介しなくても当然知ってると思いますけど(・。・;
私の母は瀬戸内町出身なので、帰省するたびに過疎化が深刻なのが、痛いほどわかります。
私のなかのシマ(故郷)といえば、瀬戸内なんですよね(>_<) 小さい頃から母の集落の事を、シマって呼んでましたね~
瀬戸内町を盛り上げてくれている、プロジェクターさん達、ありがとうございます(^^)
これからも、瀬戸内町の発展を願ってます)^o^(
カサンとヒギャの逢いの子 会員の本間由美子でした(^^)
ということで、本日は、お待ちかね「考古」の話ですよ)^o^(
瀬戸内町教育委員会の考古学専門の方、鼎 丈太郎さんによる
「奄美大島南部におけるゴホウラ資料~表面採集状況及び若干の考察~」
という報告でした。
私にとっては、若干どころか、もうこの報告を聞いてテンションあがりつけて
隣に座っていた、ヒギャ自慢プロジェクターの女性の方に、延々話かてしまい
大変、迷惑をかけてしまう状況にまで(>_<)
しーまアワード三位おめでとうございます!(^^)!
私も負けじと、今後も文章のみで発信していきます!!
えーと、話をもどして。。。
内容は、瀬戸内町内の遺跡の現況紹介と、「貝交易」に使われていただろうゴホウラという貝が、瀬戸内町内で表採されているという報告でした。
「貝交易」を簡単に説明しますね
弥生時代~古墳時代(縄文までさかのぼるのかな?細かなとこまでは、スミマセンがわかりません)に、日本本土で沖縄・奄美産の貝製品が遺跡から出土されることから、南島産の貝が交易品として重宝されていたどうということ。
また、南島の遺跡では、土器の形や文様が本土の物とよく似ていることから、本土と南島の間で、人々の交流があっただろう、ということがわかっています。
貝製品の主なものが「貝輪」です。オオツタノハ、イモガイ、そしてゴホウラを加工して、貝の輪っか(今流行りのブレスレットですね)が本土の遺跡(北九州が多い)からはよく出ています。
埋葬された人骨の腕にはめられているものが多いのも、何かしらかの意味があったのでしょうね。
一説には「魔除け」として、はめられていたといわれています。
で、ゴホウラですが、沖縄では貝集積遺構(一か所に集められているあと)が30遺跡、100基もあるそうです
では、奄美はどうか?となりますと・・・ 意外と少ない。。。
何故だ? 本土と沖縄の中継地点の奄美では何故少ないのか?? というのが現状でした。
でした。。 でした。 ですよ(p_-)
現在、奄美大島の遺跡といえば、だいたいが、北部に集中しています。
発掘調査が盛んだったからです。そこからは、ゴホウラはあんまし出ていないのですね。
しかし、なんと!! 南部の瀬戸内町では、ゴホウラが結構な数で表採されているらしいのです!!
凄くないですか?! 表採ですよ。表面に出ている物を採集する。略して「表採(表面採集)」
埋まっているのではなく、落ちてるって話じゃないですか(*_*)
掘ったら、どれだけの数がでてくるんでしょうね~ なんか、ワクワクする話ですね!(^^)!
鼎さんの考察によると、奄美ではゴホウラの生息しやすい場所が少なく、大島海峡や焼内湾に多く生息していることから、生息する環境が南部にはあるのだろう、とのこと。
ゴホウラの方言名が得られないことから、食料など生活に密着したものでは無いだろうとのこと。(食料では無いのに、なぜ陸地で表採されるか?加工用だったのだろう、という推察)
南部のリアス式海岸は、今でも避難港として良好な場所であり、弥生時代の人々にとっても、格好の中継地・港であっただろうとのこと。
沖縄での遺跡同様、死貝も多く確認できる。死貝も貴重なものだったのだろうと推察。
ほとんどの貝に、何らかの加工あとが見られる。
そのことから「貝交易」と深い関連性が高いだろうとのこと。
でした!(^^)! すっごいですね~ 瀬戸内町!!!
町内史跡マップももらえたのですが、縄文の嘉徳遺跡を筆頭に、52も遺跡があるみたい(^。^)
だいたいの集落では、中世のカムイヤキや青磁のかけらが表採されているそうです。
これからの調査や研究に、目が離せません!!
そして、追記で。。
報告者の鼎さんは、笠利出身。妖怪でおなじみの民俗の町さんは、与論出身。隣に座っていたヒギャ自慢プロジェクトの方は、県外出身だそうで、町外出身の方々と共に支え合って、元気を発信している瀬戸内町は素晴らしいですね~
しーまブログ「ヒギャ自慢プロジェクト」 おすすめブログです!! って紹介しなくても当然知ってると思いますけど(・。・;
私の母は瀬戸内町出身なので、帰省するたびに過疎化が深刻なのが、痛いほどわかります。
私のなかのシマ(故郷)といえば、瀬戸内なんですよね(>_<) 小さい頃から母の集落の事を、シマって呼んでましたね~
瀬戸内町を盛り上げてくれている、プロジェクターさん達、ありがとうございます(^^)
これからも、瀬戸内町の発展を願ってます)^o^(
カサンとヒギャの逢いの子 会員の本間由美子でした(^^)