2011年05月27日
我が家にやって来たコゲラたち
昨年は宇宿貝塚で見た小鳥のコゲラが今年は我が家のあたりにきた。
初めてのことだ。昨日(5/26)降雨なし、あたりで草取り等の作業。
あたりの回りにあるガジマルや桑の木で小鳥の鳴き声がする。
近づいてよく見るとメジロが4羽、コゲラが2羽、鳥名に自信ない小鳥が
2羽仲良く遊んでいる。
名に自信のない小鳥のこと今日図鑑で調べると自信はなかったがやはり
シジュウカラだった。コゲラの説明文の中にコゲラはシジュウカラや
メジロの群れのなかに混じって行動する時もあるとあり、まさにそのとうり。
図鑑にある3種類の小鳥がいっしょに行動して居るのを見る事ができラッキー。
昨年宇宿貝塚で見た時もメジロとコゲラがいっしょにいたが、種類の
違う鳥同士が仲良く行動するとは信じられない事。
キツツキ科の鳥は山で行動し、民家の近くにはあまり来ないものと
思って居た。先入観は無くさないといけない。
コゲラあまり人恐がらない。写真に撮ったが、貼り付けうまくできない。
あたり=屋敷内または屋敷のすぐそばの畑のこと
(八月踊り歌詞でよくでます)
ky
初めてのことだ。昨日(5/26)降雨なし、あたりで草取り等の作業。
あたりの回りにあるガジマルや桑の木で小鳥の鳴き声がする。
近づいてよく見るとメジロが4羽、コゲラが2羽、鳥名に自信ない小鳥が
2羽仲良く遊んでいる。
名に自信のない小鳥のこと今日図鑑で調べると自信はなかったがやはり
シジュウカラだった。コゲラの説明文の中にコゲラはシジュウカラや
メジロの群れのなかに混じって行動する時もあるとあり、まさにそのとうり。
図鑑にある3種類の小鳥がいっしょに行動して居るのを見る事ができラッキー。
昨年宇宿貝塚で見た時もメジロとコゲラがいっしょにいたが、種類の
違う鳥同士が仲良く行動するとは信じられない事。
キツツキ科の鳥は山で行動し、民家の近くにはあまり来ないものと
思って居た。先入観は無くさないといけない。
コゲラあまり人恐がらない。写真に撮ったが、貼り付けうまくできない。
あたり=屋敷内または屋敷のすぐそばの畑のこと
(八月踊り歌詞でよくでます)
ky
2011年05月24日
辺留窪遺跡
辺留窪遺跡は笠利町辺留(べる)集落の北端の低地にある。
(この辺留窪遺跡の北側台地が辺留グスク遺跡である)
この辺留窪遺跡付近に町の施設建設が予定されたので1982年
7月に発掘調査された。
出土遺物は土器片、類須恵器片、陶磁器片(中国製白磁含む)、鉄片、
貝類,獣骨、魚骨など。
時期は弥生時代後期から兼久時代、グスク時代、薩摩藩時代初期と
云われている。(時期不明の無文土器あり)
遺跡は長年の居住による撹乱や圃場整備などにより、旧地形を留めて
いない。そのため本来の状況を保った遺物包含層は存在せず、時期の
異なる遺物が混在して出土したとのことである。
KY
(この辺留窪遺跡の北側台地が辺留グスク遺跡である)
この辺留窪遺跡付近に町の施設建設が予定されたので1982年
7月に発掘調査された。
出土遺物は土器片、類須恵器片、陶磁器片(中国製白磁含む)、鉄片、
貝類,獣骨、魚骨など。
時期は弥生時代後期から兼久時代、グスク時代、薩摩藩時代初期と
云われている。(時期不明の無文土器あり)
遺跡は長年の居住による撹乱や圃場整備などにより、旧地形を留めて
いない。そのため本来の状況を保った遺物包含層は存在せず、時期の
異なる遺物が混在して出土したとのことである。
KY
2011年05月04日
伝統文化
赤木名観音堂
赤木名観音寺跡は赤木名中学校の裏にあります。生徒たちは「観音が丘」と呼んでいます。校歌にもその名前があり、部活
でもこの丘をランニングコースにするなど学校の敷地内のように活用されています。ここにお寺を建てたのが延宝3年(1675年)10月江戸時代のことです。赤木名には、薩摩の代官所跡もあり、当時の代官は町田嘉右衛門とされています。大島を治めるために薩摩の役人たちが大勢派遣されました。任期が2年。奄美に住んでいるとホームシックにかかる役人達が多かったようです。現代のように大型船や飛行機に乗ってすぐに鹿児島に行けるような状況ではありません。島に来た役人たちのよりどころとして、また、心の支えになるようにとここにお寺が建てられたそうです。その石碑が招魂碑(現在太陽が丘へ移転済み)のそばにありました。代官所の移転とともに観音堂も名瀬の伊津部へ移ることになります。八月踊りの歌には 「赤木名観音堂や、伊津部かちなおろ、なおろなおろに、な音ばかり」 とあります。移ろうとした年の寛政12年(1800年)から、代官、和田信吾が代官仮屋を赤木名から伊津部に移して19年目の文政2年(1819年)になってようやく移したからと言われています。今でも野生化して咲く紫の藤の花はその時代を物語る花とも言われています。
尚 赤木名の里集落では平成21年11月29日(旧暦10月)に赤木名観音堂祭りを設立し毎年恒例行事として観音が丘で
開催し、奄美市一集落一ブランドにも認定され集落の活性化に取り組んでいるようです。
ts
赤木名観音寺跡は赤木名中学校の裏にあります。生徒たちは「観音が丘」と呼んでいます。校歌にもその名前があり、部活
でもこの丘をランニングコースにするなど学校の敷地内のように活用されています。ここにお寺を建てたのが延宝3年(1675年)10月江戸時代のことです。赤木名には、薩摩の代官所跡もあり、当時の代官は町田嘉右衛門とされています。大島を治めるために薩摩の役人たちが大勢派遣されました。任期が2年。奄美に住んでいるとホームシックにかかる役人達が多かったようです。現代のように大型船や飛行機に乗ってすぐに鹿児島に行けるような状況ではありません。島に来た役人たちのよりどころとして、また、心の支えになるようにとここにお寺が建てられたそうです。その石碑が招魂碑(現在太陽が丘へ移転済み)のそばにありました。代官所の移転とともに観音堂も名瀬の伊津部へ移ることになります。八月踊りの歌には 「赤木名観音堂や、伊津部かちなおろ、なおろなおろに、な音ばかり」 とあります。移ろうとした年の寛政12年(1800年)から、代官、和田信吾が代官仮屋を赤木名から伊津部に移して19年目の文政2年(1819年)になってようやく移したからと言われています。今でも野生化して咲く紫の藤の花はその時代を物語る花とも言われています。
尚 赤木名の里集落では平成21年11月29日(旧暦10月)に赤木名観音堂祭りを設立し毎年恒例行事として観音が丘で
開催し、奄美市一集落一ブランドにも認定され集落の活性化に取り組んでいるようです。
ts