2011年01月30日
ダンベ山遺跡
ダンベ山遺跡は正式名「宇宿貝塚東地区遺跡」のことです。
宇宿貝塚の近くには、いくつもの遺跡がありますが、その中の
一つで、宇宿貝塚のすぐそばにあります。
ダンベ山は、宇宿貝塚と同一の砂丘であったが、掘割道が
出来た時、西(宇宿貝塚)と東(ダンベ山)に分かれた。
東は、小さい砂山となる。この小山は、発掘調査後「宇宿貝塚
東地区遺跡」となったが、集落の人々がこの小山をダンベ山と
呼んでいたので「ダンベ山遺跡」とも言われる。
この「宇宿貝塚東地区」からは、特徴ある遺物の出土が少なか
ったためか、文献にはあまり載らないようである。
先ごろ、ダンベ山遺跡はどこですかと宇宿貝塚に尋ねて来られ
た方が居た。目の前にある遺跡の前をタクシーで2回往ったり
来たりしたとの事。運転手も知らなかった、これぞまさしく
「知る人ぞ知る○○だ」
この小山をどうして集落の人達がダンベ山と呼んでいるかと
いうと、小山のソテツや木にダンベがからまり小山を覆いつく
していたからです。
ダンベは植物の方言名です。ヤンとも言います。 図鑑にある
「オオイタビ」 のことです。
このダンベ山は「神山」とも言われていました。
*今は、外来種と思われる葛がダンベ山を覆いつくしています*
昔は、この小山の前は怖い所と言って、小走りに通りすぎたが
今の子供たちは、わいわい がやがや楽しそうに通りすぎている。
このダンベ山遺跡 (ダンベ山の方が言いやすく、判り易い)
からは、人骨も数体出土していて、昔の人々が 畏れていた
「神山」、「村はずれ」、「墓」 の3っつも備えているので「ダンベ
山」が怖がられたのはあたりまえだろう。
昭和8年に、ここの掘割道を通られた京都大学の三宅博士が
西側(現宇宿貝塚)の砂丘の法面から、貝殻や土器片を見つけ
たのが「宇宿貝塚」の発見ですです。
ky
宇宿貝塚の近くには、いくつもの遺跡がありますが、その中の
一つで、宇宿貝塚のすぐそばにあります。
ダンベ山は、宇宿貝塚と同一の砂丘であったが、掘割道が
出来た時、西(宇宿貝塚)と東(ダンベ山)に分かれた。
東は、小さい砂山となる。この小山は、発掘調査後「宇宿貝塚
東地区遺跡」となったが、集落の人々がこの小山をダンベ山と
呼んでいたので「ダンベ山遺跡」とも言われる。
この「宇宿貝塚東地区」からは、特徴ある遺物の出土が少なか
ったためか、文献にはあまり載らないようである。
先ごろ、ダンベ山遺跡はどこですかと宇宿貝塚に尋ねて来られ
た方が居た。目の前にある遺跡の前をタクシーで2回往ったり
来たりしたとの事。運転手も知らなかった、これぞまさしく
「知る人ぞ知る○○だ」
この小山をどうして集落の人達がダンベ山と呼んでいるかと
いうと、小山のソテツや木にダンベがからまり小山を覆いつく
していたからです。
ダンベは植物の方言名です。ヤンとも言います。 図鑑にある
「オオイタビ」 のことです。
このダンベ山は「神山」とも言われていました。
*今は、外来種と思われる葛がダンベ山を覆いつくしています*
昔は、この小山の前は怖い所と言って、小走りに通りすぎたが
今の子供たちは、わいわい がやがや楽しそうに通りすぎている。
このダンベ山遺跡 (ダンベ山の方が言いやすく、判り易い)
からは、人骨も数体出土していて、昔の人々が 畏れていた
「神山」、「村はずれ」、「墓」 の3っつも備えているので「ダンベ
山」が怖がられたのはあたりまえだろう。
昭和8年に、ここの掘割道を通られた京都大学の三宅博士が
西側(現宇宿貝塚)の砂丘の法面から、貝殻や土器片を見つけ
たのが「宇宿貝塚」の発見ですです。
ky
2011年01月23日
奄美の旧石器時代
人類は約500万年前アフリカ大陸で誕生したと云われています。
旧石器時代は、人類誕生から縄文時代の始まる約13,000年
前まで続いています。
1949年以前は、日本には「縄文時代」から人が住み始めていた、
とされていたが、1946年アマチュア考古者の相沢忠洋さんが、
旧群馬県新田郡笠懸村岩宿で(現岩宿遺跡)旧石器を発見しま
した。1949年、明治大学による岩宿遺跡の本格的」な発掘調査
により日本に於ける旧石器時代の存在が立証された。
沖縄では、発見された人骨、「山下洞人」が約32,000年前、
「港川人」が約18,000年前とされていますが、彼らが使用した
旧石器などは見つかっていません。
奄美では旧石器時代の人骨の発見はありませんが、1986年
(昭和61年)笠利町土浜での発掘調査で、放射性炭素年代測定
で約21,000年前とされる石器が発見されました。(土浜ヤーヤ
遺跡)。
翌年の1987年から1990年まで笠利町土盛での発掘調査で
集石群が出土しました。この集石群が発見された地層の放射性
炭素年代測定で約25,000年前という結果が出ています。(喜
子川遺跡)(キシカワイセキ)
土盛の喜子川遺跡からは完全な石器は見つかっていませんが、
石器の材料や加工した時にできるくずのような「チップ」がたくさん
出土していて、人の生活跡ではないかと云われています。
このことなどから、奄美にも旧石器時代には人が住み始めていた
とも云われています。
もっと研究が進み奄美でも旧石器時代には、人々が生活を始めて
いたという事が、早く立証されたらいいですね。
ky
旧石器時代は、人類誕生から縄文時代の始まる約13,000年
前まで続いています。
1949年以前は、日本には「縄文時代」から人が住み始めていた、
とされていたが、1946年アマチュア考古者の相沢忠洋さんが、
旧群馬県新田郡笠懸村岩宿で(現岩宿遺跡)旧石器を発見しま
した。1949年、明治大学による岩宿遺跡の本格的」な発掘調査
により日本に於ける旧石器時代の存在が立証された。
沖縄では、発見された人骨、「山下洞人」が約32,000年前、
「港川人」が約18,000年前とされていますが、彼らが使用した
旧石器などは見つかっていません。
奄美では旧石器時代の人骨の発見はありませんが、1986年
(昭和61年)笠利町土浜での発掘調査で、放射性炭素年代測定
で約21,000年前とされる石器が発見されました。(土浜ヤーヤ
遺跡)。
翌年の1987年から1990年まで笠利町土盛での発掘調査で
集石群が出土しました。この集石群が発見された地層の放射性
炭素年代測定で約25,000年前という結果が出ています。(喜
子川遺跡)(キシカワイセキ)
土盛の喜子川遺跡からは完全な石器は見つかっていませんが、
石器の材料や加工した時にできるくずのような「チップ」がたくさん
出土していて、人の生活跡ではないかと云われています。
このことなどから、奄美にも旧石器時代には人が住み始めていた
とも云われています。
もっと研究が進み奄美でも旧石器時代には、人々が生活を始めて
いたという事が、早く立証されたらいいですね。
ky
2011年01月19日
グスク時代とは
奄美・沖縄では「城」と書いてグスクと読む
沖縄では、今から約1000年前から600年前頃までの
按司(あじ)と呼ばれる実力者の出現から琉球」王国の
成立までの時代を云います。
奄美でもこの時代をグスク時代と仮称しています。
グスクとは、
按司とよばれる実力者たちが防御のために造った城の
ようなものと云われているが、城(グスク)は、沖縄や
本土の城のように石垣や天守閣があるような城ではない。
そのような城ができる以前の古い城と云われている。
奄美のグスクも按司と呼ばれるような実力者が、住まい
を構えた所である。
そこは、防御のため土塁や堀切、竪堀などがあり側面が
人が簡単に上ってこれないように崖になっていたりする。
グスクは、各集落の入り口や中心に近い小高い山や丘の
見晴らしの良い所にあるようである。宇宿貝塚や宇宿小学
校構内遺跡も、一つのグスクであると云われている。
特に笠利町里(赤木名)の赤木名中学校裏手の山にある
赤木名グスクは国指定史跡になっている。
標高80mから100mの赤木名集落や笠利湾が良く見える
山頂にあり側面の崖、竪堀や土塁、堀切あとなどを見ること
ができる。
赤木名グスクの平地の所は、第2次世界大戦後しばらくは
イモ畑などとして耕作されていたとの事。
奄美のグスク時代の研究は、まだ始まったばかりとの事。
各集落にあるグスクの調査も早く進んでほしいですね。
ky
沖縄では、今から約1000年前から600年前頃までの
按司(あじ)と呼ばれる実力者の出現から琉球」王国の
成立までの時代を云います。
奄美でもこの時代をグスク時代と仮称しています。
グスクとは、
按司とよばれる実力者たちが防御のために造った城の
ようなものと云われているが、城(グスク)は、沖縄や
本土の城のように石垣や天守閣があるような城ではない。
そのような城ができる以前の古い城と云われている。
奄美のグスクも按司と呼ばれるような実力者が、住まい
を構えた所である。
そこは、防御のため土塁や堀切、竪堀などがあり側面が
人が簡単に上ってこれないように崖になっていたりする。
グスクは、各集落の入り口や中心に近い小高い山や丘の
見晴らしの良い所にあるようである。宇宿貝塚や宇宿小学
校構内遺跡も、一つのグスクであると云われている。
特に笠利町里(赤木名)の赤木名中学校裏手の山にある
赤木名グスクは国指定史跡になっている。
標高80mから100mの赤木名集落や笠利湾が良く見える
山頂にあり側面の崖、竪堀や土塁、堀切あとなどを見ること
ができる。
赤木名グスクの平地の所は、第2次世界大戦後しばらくは
イモ畑などとして耕作されていたとの事。
奄美のグスク時代の研究は、まだ始まったばかりとの事。
各集落にあるグスクの調査も早く進んでほしいですね。
ky
2011年01月15日
かねく時代 その3
かねくとは、砂丘の事と書いたが、
畑などの土地が砂地の場合、かねくじ(かねく地)と言い、
普通の土の場合は、みちゃじ(みちゃ地)と言います。
土の事方言で みちゃ と言います。
赤土の事は はぁみちゃ。
笠利町の東海岸にある集落のほとんどが、かねく上に
(砂丘上)ある。
土浜集落から用集落までの海岸線は砂丘がとても発達
した所であったが、土木工事の材料として砂が採取され、
砂丘が無くなったり小さくなっている。
護岸や港の構築により、海岸線の変化(砂丘の消滅)も
ある。私達の小中学生時代の浜おれ、遠足で遊んだ浜
が今は無くなったり小さくなって、私の集落では本当の
浜での浜おれ遊び(浜下り)ができない。
話が横道にそれたが
地名では、かねくがある集落の方が多いと思うが、名瀬
小湊集落はかねくが多い。
(○○ガネク遺跡と付いている)
有名なフワガネク(外金久)、ナガガネク(長金久)、サガリ
ガネク(下金久)、ウジガネク(内金久)、ナンガネク(中金久)
コガネク(小金久)とカネク名の付く遺跡がある。
小湊にはこの他にも遺跡がいくつもある。
*フワガネク遺跡は、奄美看護福祉専門学校横の畑地
一帯です。
集落の中にもは、かねく遺跡があり、集落全体がカネク上
(砂丘上)にあるとおもわれる。
ちなみに、私の集落にはフウガネク(大ガネク)、ナカガネク
(中金久)、ハマガネク(浜金久)がある(あった)。しかし、
護岸や港ができて、海岸の所にあったハマガネクが波に
さらわれ、跡形なし。
小学生の頃の旧5月や3月の浜おれ遊び、穴を掘っての
いろいろな遊び、今は無くなっている「火じゃま追い」行事が、
浜ガネクの消滅と同時に無くなっていった。 とてもさびしい
*火じゃま追い・・・本土の1月14日のどんどん焼きと似てい
るが奄美では火の用心の行事
なぜか集落の大部分の民家は、かねく(砂丘)の上に建って
いるのに、かねくとは呼ばれていない。
もっと早く考古・民俗学に興味持てばよかった(あと10年早く)
物知りのおじさん達が亡くなっている。
ky
次回は、グスク時代
畑などの土地が砂地の場合、かねくじ(かねく地)と言い、
普通の土の場合は、みちゃじ(みちゃ地)と言います。
土の事方言で みちゃ と言います。
赤土の事は はぁみちゃ。
笠利町の東海岸にある集落のほとんどが、かねく上に
(砂丘上)ある。
土浜集落から用集落までの海岸線は砂丘がとても発達
した所であったが、土木工事の材料として砂が採取され、
砂丘が無くなったり小さくなっている。
護岸や港の構築により、海岸線の変化(砂丘の消滅)も
ある。私達の小中学生時代の浜おれ、遠足で遊んだ浜
が今は無くなったり小さくなって、私の集落では本当の
浜での浜おれ遊び(浜下り)ができない。
話が横道にそれたが
地名では、かねくがある集落の方が多いと思うが、名瀬
小湊集落はかねくが多い。
(○○ガネク遺跡と付いている)
有名なフワガネク(外金久)、ナガガネク(長金久)、サガリ
ガネク(下金久)、ウジガネク(内金久)、ナンガネク(中金久)
コガネク(小金久)とカネク名の付く遺跡がある。
小湊にはこの他にも遺跡がいくつもある。
*フワガネク遺跡は、奄美看護福祉専門学校横の畑地
一帯です。
集落の中にもは、かねく遺跡があり、集落全体がカネク上
(砂丘上)にあるとおもわれる。
ちなみに、私の集落にはフウガネク(大ガネク)、ナカガネク
(中金久)、ハマガネク(浜金久)がある(あった)。しかし、
護岸や港ができて、海岸の所にあったハマガネクが波に
さらわれ、跡形なし。
小学生の頃の旧5月や3月の浜おれ遊び、穴を掘っての
いろいろな遊び、今は無くなっている「火じゃま追い」行事が、
浜ガネクの消滅と同時に無くなっていった。 とてもさびしい
*火じゃま追い・・・本土の1月14日のどんどん焼きと似てい
るが奄美では火の用心の行事
なぜか集落の大部分の民家は、かねく(砂丘)の上に建って
いるのに、かねくとは呼ばれていない。
もっと早く考古・民俗学に興味持てばよかった(あと10年早く)
物知りのおじさん達が亡くなっている。
ky
次回は、グスク時代
2011年01月13日
かねく時代 その2
前回の分かりずらい、かねく時代の説明のあと
懲りずに その2
かねく時代は、この時代に位置付けられている
「兼久式土器」が出土する時代であり、弥生時代
の後の今から約1700年前から1000年前頃まで
を、奄美では「かねく時代」と仮称しています。
この時代の事は、専門の先生方の間で今さかん
に調査研究されています。
「兼久式土器」は昭和29年に、徳之島の伊仙町(村)
面縄兼久の兼久貝塚(面縄第3貝塚)から、奄美で
最初に発見されました。
この事から、この兼久式土器と呼ばれる土器が最初に
出土した地名を取って兼久式土器と名づけたものと思
われる。(これは私の考えです)
兼久式土器を出土する遺跡として、笠利町では用見岬
遺跡(用)、マツノト遺跡(土盛)、サウチ遺跡(喜瀬崎原)、
長浜金久遺跡(奄美空港前)、名瀬では小湊のフワガネ
ク遺跡などがある。
用見崎遺跡、マツノト遺跡、フワガネク遺跡などからは、
兼久式土器と夜光貝を大量に出土する。
用見崎遺跡からは、中国のお金「開元通宝」も出土して
いるので、このころ中国や北九州との貝交易などがあった
と言われている。
兼久式土器にも紋様が付いているが、縄文式土器の
ように手の込んだ紋様ではない。
ky
次回も かねく
懲りずに その2
かねく時代は、この時代に位置付けられている
「兼久式土器」が出土する時代であり、弥生時代
の後の今から約1700年前から1000年前頃まで
を、奄美では「かねく時代」と仮称しています。
この時代の事は、専門の先生方の間で今さかん
に調査研究されています。
「兼久式土器」は昭和29年に、徳之島の伊仙町(村)
面縄兼久の兼久貝塚(面縄第3貝塚)から、奄美で
最初に発見されました。
この事から、この兼久式土器と呼ばれる土器が最初に
出土した地名を取って兼久式土器と名づけたものと思
われる。(これは私の考えです)
兼久式土器を出土する遺跡として、笠利町では用見岬
遺跡(用)、マツノト遺跡(土盛)、サウチ遺跡(喜瀬崎原)、
長浜金久遺跡(奄美空港前)、名瀬では小湊のフワガネ
ク遺跡などがある。
用見崎遺跡、マツノト遺跡、フワガネク遺跡などからは、
兼久式土器と夜光貝を大量に出土する。
用見崎遺跡からは、中国のお金「開元通宝」も出土して
いるので、このころ中国や北九州との貝交易などがあった
と言われている。
兼久式土器にも紋様が付いているが、縄文式土器の
ように手の込んだ紋様ではない。
ky
次回も かねく
2011年01月12日
かねく時代
奄美のかねく時代 (兼久時代)
本土の時代区分では弥生時代の次は
古墳時代・飛鳥時代・奈良時代とされていますが
沖縄では「沖縄貝塚時代後期」とされています。
奄美においては、まだ時代区分がなされていません。
奄美では、この時代に位置付けられている土器で
ある「兼久式土器」が出土する時代をこれに当てて
いるが、兼久式土器の細分と正確な編年には到っ
ていません。
かねく(兼久)時代としたのは「兼久式土器」が出土
するのが、ほとんど砂丘(かねく)遺跡からであるから。
かねくとは・・・かねくとは、砂丘や砂地の事を
奄美では、かねくと呼んでいる。
このことから「兼久時代」と仮称して使っている。
兼久は、集落の字(あざ)では、金久と当て
ているところもある。金久とあるのは、その場
所が昔砂丘であった事を表している。
例 赤木名集落の中金久。外金久
次回もかねく
本土の時代区分では弥生時代の次は
古墳時代・飛鳥時代・奈良時代とされていますが
沖縄では「沖縄貝塚時代後期」とされています。
奄美においては、まだ時代区分がなされていません。
奄美では、この時代に位置付けられている土器で
ある「兼久式土器」が出土する時代をこれに当てて
いるが、兼久式土器の細分と正確な編年には到っ
ていません。
かねく(兼久)時代としたのは「兼久式土器」が出土
するのが、ほとんど砂丘(かねく)遺跡からであるから。
かねくとは・・・かねくとは、砂丘や砂地の事を
奄美では、かねくと呼んでいる。
このことから「兼久時代」と仮称して使っている。
兼久は、集落の字(あざ)では、金久と当て
ているところもある。金久とあるのは、その場
所が昔砂丘であった事を表している。
例 赤木名集落の中金久。外金久
次回もかねく
2011年01月09日
弥生時代とは
弥生時代のこと
弥生時代は今から2300年前から1700年前までの
約600年続いた時代。弥生土器の出現。
弥生時代・・・弥生土器と言われている土器が
東京都文京区弥生町で最初に発見されたので
その地名をとってつけた。
弥生土器・・・今までの縄文土器のような重厚で
手の込んだ紋様を付けた土器では
なく形も農耕に適したようなものに
なり紋様もシンプルなものになった。
弥生時代の特徴・・・農耕(水田稲作など)開始。
鉄器、青銅器など金属使用。
衣食住の変化など。
今は、縄文時代、弥生時代のこと小学6年生の頃
で教わるらしい。
内容が気になる。その時代のことをどのように教えて
もらっているのかな。
*前回と同じ信じ込み一つ*
約半世紀前の中学1年生の頃の自分、先生から弥生
時代のこと教えてもらったときの事。
弥生時代の土器には模様がない ツルンとしていると。
このことずっと信じ込んでいたが、十数年前、ある本
で弥生時代の土器にも紋様が付いていると書かれて
いた。それからどっちが本当だろうかと気になっていた。
6年前宇宿貝塚に来て、宇宿貝塚から発掘された弥生
系土器を見て、やはり弥生土器には紋様は付いていな
いんだ、(展示されている宇宿貝塚の弥生系土器には
紋様がついていない) とその場では納得したが心が
すっきりしない。
図書館で調べたり、先日専門の先生にお尋ねをして
私の長年の疑問が晴れた。
結論は
「弥生時代の土器には紋様がついているものと、
紋様のついていないツルンとしている物がある」
ちなみに、日本で最初に弥生町で発見された弥生
土器には、紋様が付いていなかったらしい。
私にいろいろ教えてくださったた先生も、この事で
弥生土器には模様が付いていないと信じ込んで
しまったのかも知れない。
恩師、もう亡くなられていて訊ねようが無い。
半世紀も前の田舎の自分たちにとって、先生の教えは
絶対的、怖くて変な質問できなかった。
他にも信じ込みあるかも。
ky
弥生時代は今から2300年前から1700年前までの
約600年続いた時代。弥生土器の出現。
弥生時代・・・弥生土器と言われている土器が
東京都文京区弥生町で最初に発見されたので
その地名をとってつけた。
弥生土器・・・今までの縄文土器のような重厚で
手の込んだ紋様を付けた土器では
なく形も農耕に適したようなものに
なり紋様もシンプルなものになった。
弥生時代の特徴・・・農耕(水田稲作など)開始。
鉄器、青銅器など金属使用。
衣食住の変化など。
今は、縄文時代、弥生時代のこと小学6年生の頃
で教わるらしい。
内容が気になる。その時代のことをどのように教えて
もらっているのかな。
*前回と同じ信じ込み一つ*
約半世紀前の中学1年生の頃の自分、先生から弥生
時代のこと教えてもらったときの事。
弥生時代の土器には模様がない ツルンとしていると。
このことずっと信じ込んでいたが、十数年前、ある本
で弥生時代の土器にも紋様が付いていると書かれて
いた。それからどっちが本当だろうかと気になっていた。
6年前宇宿貝塚に来て、宇宿貝塚から発掘された弥生
系土器を見て、やはり弥生土器には紋様は付いていな
いんだ、(展示されている宇宿貝塚の弥生系土器には
紋様がついていない) とその場では納得したが心が
すっきりしない。
図書館で調べたり、先日専門の先生にお尋ねをして
私の長年の疑問が晴れた。
結論は
「弥生時代の土器には紋様がついているものと、
紋様のついていないツルンとしている物がある」
ちなみに、日本で最初に弥生町で発見された弥生
土器には、紋様が付いていなかったらしい。
私にいろいろ教えてくださったた先生も、この事で
弥生土器には模様が付いていないと信じ込んで
しまったのかも知れない。
恩師、もう亡くなられていて訊ねようが無い。
半世紀も前の田舎の自分たちにとって、先生の教えは
絶対的、怖くて変な質問できなかった。
他にも信じ込みあるかも。
ky
2011年01月07日
縄文時代とは その2
縄文土器について
前回、縄文時代の土器はすべて縄で文様を付け
たと勘違いした中学生の頃のこと書いたが、
奄美では、縄で紋様を付けたと思われる縄文
土器の出土例は非常に少ない。
縄以外の道具で紋様を付けたものがほとんどです。
私もまだ縄目の付いた土器を見たことがないので
網目がどのように付くかよく分からない。
本土の縄文土器には、左縄で縄目を付けた物も
あるという事なので一度見てみたい。
それか一度赤土をとってきて実行してみようかな
縄文土器に紋様を描く材料は、縄以外に竹や
細い棒、貝殻などである。
縄文土器は
単に縄文土器とは言わず、制作された年代や
発掘された地名、地層などから、「縄文時代中期」
とか「面縄○○式土器」、「宇宿上層式土器」など
と呼称されている。
宇宿貝塚から発掘された「宇宿下層式土器」には
カゴを編むような紋様のものも多数ある。
(カゴ目紋様)
「縄文土器」=縄目&縄目に似た模様の付いたどき=
「縄文時代土器」,「縄文式土器」という
ことになると思う。
次回は弥生時代
*おことわり・・・私は専門官ではありません。だだの
考古や民俗学が好きな一般人です。
間違いもあるかもしれません。
宇宿貝塚 ky
前回、縄文時代の土器はすべて縄で文様を付け
たと勘違いした中学生の頃のこと書いたが、
奄美では、縄で紋様を付けたと思われる縄文
土器の出土例は非常に少ない。
縄以外の道具で紋様を付けたものがほとんどです。
私もまだ縄目の付いた土器を見たことがないので
網目がどのように付くかよく分からない。
本土の縄文土器には、左縄で縄目を付けた物も
あるという事なので一度見てみたい。
それか一度赤土をとってきて実行してみようかな
縄文土器に紋様を描く材料は、縄以外に竹や
細い棒、貝殻などである。
縄文土器は
単に縄文土器とは言わず、制作された年代や
発掘された地名、地層などから、「縄文時代中期」
とか「面縄○○式土器」、「宇宿上層式土器」など
と呼称されている。
宇宿貝塚から発掘された「宇宿下層式土器」には
カゴを編むような紋様のものも多数ある。
(カゴ目紋様)
「縄文土器」=縄目&縄目に似た模様の付いたどき=
「縄文時代土器」,「縄文式土器」という
ことになると思う。
次回は弥生時代
*おことわり・・・私は専門官ではありません。だだの
考古や民俗学が好きな一般人です。
間違いもあるかもしれません。
宇宿貝塚 ky
2011年01月06日
縄文時代とは
縄文時代は、今から約1万3千年前から2千300年前頃まで1万年以上続いた。
縄文時代とは・・・縄文土器が使用された時代が縄文時代です。
縄文土器とは・・・土器に縄目の文様を付けるから縄文土器。
今から50年くらい前の中学1年生の頃の自分、縄文時代や弥生時代
のこと教わった時、先生に縄文土器への文様のつけ方も教えてもらった。
それは、20cmくらいの長さに藁で縄をないそれを生乾きの土器の側面に
当て、手のひらでコロコロころがし、縄目文様を付けるという事だった。
縄の材料も現在と同じ稲藁とずっと思っていたが、そのころ稲作は無い
多分茅でなった縄だったのだろう。
(材料の事までは教えてもらっていない、縄と言えば稲藁との信じ込み)
それ以来、縄文時代の土器の文様はすべて縄目文様と信じ込んでしまった。
数年前、宇宿貝塚に来て縄文時代の土器に付いているいろいろな文様を見て
驚き(ワァーとかエ~とか)、感動した。
多分その頃の先生、縄文土器や宇宿貝塚から出土した縄文時代の土器を見て
いなかったと思う。
信じ込みは、いけませんね。
次回へつづく
縄文時代とは・・・縄文土器が使用された時代が縄文時代です。
縄文土器とは・・・土器に縄目の文様を付けるから縄文土器。
今から50年くらい前の中学1年生の頃の自分、縄文時代や弥生時代
のこと教わった時、先生に縄文土器への文様のつけ方も教えてもらった。
それは、20cmくらいの長さに藁で縄をないそれを生乾きの土器の側面に
当て、手のひらでコロコロころがし、縄目文様を付けるという事だった。
縄の材料も現在と同じ稲藁とずっと思っていたが、そのころ稲作は無い
多分茅でなった縄だったのだろう。
(材料の事までは教えてもらっていない、縄と言えば稲藁との信じ込み)
それ以来、縄文時代の土器の文様はすべて縄目文様と信じ込んでしまった。
数年前、宇宿貝塚に来て縄文時代の土器に付いているいろいろな文様を見て
驚き(ワァーとかエ~とか)、感動した。
多分その頃の先生、縄文土器や宇宿貝塚から出土した縄文時代の土器を見て
いなかったと思う。
信じ込みは、いけませんね。
次回へつづく
2011年01月04日
宇宿貝塚史跡公園とは
笠利町宇宿集落 (集落の北側村はずれ) にある宇宿貝塚は
昭和8年(今から77年前)に発見さました。
この発見以来、奄美にも縄文時代から人が生活していたことが
明らかになりました。
昭和30年に大掛かりな調査が行なわれました。
調査の結果、大きく上層と下層に分けられ、上層から無文土器、
下層から有文土器が出土しました。
上層から出土した無文土器を 「宇宿上層式土器」、
下層から出土した有文土器を 「宇宿下層式土器」 と
名づけ、奄美の土器標識になりました。
宇宿貝塚からは、全国でも類例の少ない弥生時代の
母子人骨が発掘されています。
女性の首付近からは、ガラス玉製のネックレスなどが
出土して、宇宿貝塚の中でも高貴な地位にあり、大切
に埋葬されたとされています。
宇宿貝塚は、今から3500年前頃から700年前頃まで
人が生活していた遺跡です。
縄文時代後期ー弥生時代ー古墳・飛鳥・奈良・平安・鎌倉時代
昭和61年10月7日に奄美で遺跡として初めて
国指定文化財になりました。
現在は昭和30年頃の発掘調査時の状態に戻し
保護覆屋根を取付け、平成16年2月から 「宇宿貝塚史跡公園」
として、公開しています。
昭和8年(今から77年前)に発見さました。
この発見以来、奄美にも縄文時代から人が生活していたことが
明らかになりました。
昭和30年に大掛かりな調査が行なわれました。
調査の結果、大きく上層と下層に分けられ、上層から無文土器、
下層から有文土器が出土しました。
上層から出土した無文土器を 「宇宿上層式土器」、
下層から出土した有文土器を 「宇宿下層式土器」 と
名づけ、奄美の土器標識になりました。
宇宿貝塚からは、全国でも類例の少ない弥生時代の
母子人骨が発掘されています。
女性の首付近からは、ガラス玉製のネックレスなどが
出土して、宇宿貝塚の中でも高貴な地位にあり、大切
に埋葬されたとされています。
宇宿貝塚は、今から3500年前頃から700年前頃まで
人が生活していた遺跡です。
縄文時代後期ー弥生時代ー古墳・飛鳥・奈良・平安・鎌倉時代
昭和61年10月7日に奄美で遺跡として初めて
国指定文化財になりました。
現在は昭和30年頃の発掘調査時の状態に戻し
保護覆屋根を取付け、平成16年2月から 「宇宿貝塚史跡公園」
として、公開しています。