2011年03月30日
あやまる第2貝塚
あやまる第2貝塚は、アヤマル岬北側砂丘のソテツジャングル内にある。
ソテツジャングルが自然保護地域にあったため、遺跡の破壊が無く
良好な保存状態であった。
遺跡の認識は1971年に砂丘の表面から土器の小片が見つかった
ことに始まる。
発掘調査が1978年11月から12月にかけて行なわれ、縄文時代から
弥生時代~古墳時代(兼久時代)頃までの土器、石製品、貝製品などが
出土しました。
土器は縄文時代後期から弥生時代・兼久時代までのものが出土。
石製品は研磨石器、研磨石鏃など。(黒曜石も出土)
貝製品には夜光貝の蓋を利用した貝斧がある。
他にイノシシ、ウミガメ、魚骨なども出土しています。
現在遺跡の周りを遊歩道が巡っていて、案内板も立っています。
残念な事一つ、砂丘の侵食が進んでいる事。
ky
ソテツジャングルが自然保護地域にあったため、遺跡の破壊が無く
良好な保存状態であった。
遺跡の認識は1971年に砂丘の表面から土器の小片が見つかった
ことに始まる。
発掘調査が1978年11月から12月にかけて行なわれ、縄文時代から
弥生時代~古墳時代(兼久時代)頃までの土器、石製品、貝製品などが
出土しました。
土器は縄文時代後期から弥生時代・兼久時代までのものが出土。
石製品は研磨石器、研磨石鏃など。(黒曜石も出土)
貝製品には夜光貝の蓋を利用した貝斧がある。
他にイノシシ、ウミガメ、魚骨なども出土しています。
現在遺跡の周りを遊歩道が巡っていて、案内板も立っています。
残念な事一つ、砂丘の侵食が進んでいる事。
ky
2011年03月19日
宇宿集落近辺の砂丘小遺跡
宇宿集落近辺には、前回までに紹介した長浜金久遺跡や下山田
遺跡の周辺に他にもいくつもの小遺跡があります。
遺跡名
ケジ遺跡、中永田遺跡A・B・C、前田遺跡A・B、泉川遺跡1・2・3、
和野字長浜A・B
これらの遺跡は、ほとんどが砂取り等で破壊されているようです。
遺物は土器、石器、貝、魚骨、兼久式土器などです。
遺物は縄文時代晩期頃から兼久時代 (約3000年前頃から1000年
前頃) のものが多いようです。
これらの小遺跡は1982年(昭和57年)頃に調査されたようです。
ケジ遺跡が1982年7月に発掘調査されています。
これらの小遺跡には、季節ごとに短期間の移住生活がなされて
いて、その期間は冬期であった可能性が強い、それは冬に好んで
捕食されるマガキガイの貝殻が大半の遺跡から出土しているから
であると中山清美先生が笠利町文化財報告No6で述べられてい
ます。
冬期の西海岸の強風を避けて、この東海岸で冬期のみの短期間
移住生活をしていたのでしょう。
今回で宇宿集落近辺の遺跡紹介は終了、次回からは笠利町を
左まわりに紹介していきたいと思います。
ky
遺跡の周辺に他にもいくつもの小遺跡があります。
遺跡名
ケジ遺跡、中永田遺跡A・B・C、前田遺跡A・B、泉川遺跡1・2・3、
和野字長浜A・B
これらの遺跡は、ほとんどが砂取り等で破壊されているようです。
遺物は土器、石器、貝、魚骨、兼久式土器などです。
遺物は縄文時代晩期頃から兼久時代 (約3000年前頃から1000年
前頃) のものが多いようです。
これらの小遺跡は1982年(昭和57年)頃に調査されたようです。
ケジ遺跡が1982年7月に発掘調査されています。
これらの小遺跡には、季節ごとに短期間の移住生活がなされて
いて、その期間は冬期であった可能性が強い、それは冬に好んで
捕食されるマガキガイの貝殻が大半の遺跡から出土しているから
であると中山清美先生が笠利町文化財報告No6で述べられてい
ます。
冬期の西海岸の強風を避けて、この東海岸で冬期のみの短期間
移住生活をしていたのでしょう。
今回で宇宿集落近辺の遺跡紹介は終了、次回からは笠利町を
左まわりに紹介していきたいと思います。
ky
2011年03月10日
宇宿港遺跡 (うしゅくみなといせき)
「宇宿港遺跡」は、宇宿貝塚道路向かいの砂丘一帯で、今、
保育所や町営住宅等が建っている。
1980年(昭和55年)町営住宅建設時に人骨が発見され、
発掘調査された。
遺物は、弥生時代の男女一体づつの人骨、土器片、石器、
貝刃、貝、獣骨、魚骨、兼久式土器片などが出土している。
ここは、宇宿集落内を流れる川(前川)の河口で集落の
方たちはここをニャトと呼んでいた。
方言で河口の事をニャトと云うので、このニャトが漢字
表記になった時「港」になったのだろう。
このあたりの字名も港となっているので、「宇宿港遺跡」
としたのでしょう。
先日宇宿港遺跡は、宇宿漁港のどのあたりにあるのですか
とたずねられた。
「港」と云うと漁港などの港の事だと勘違いして、私も
数年前まで「宇宿港遺跡」は宇宿漁港の近くにあるもの
と思っていた。
港遺跡が漁港の出来るずっと以前に漁港より離れた所で
発見されている事を知らなかったからである。
もっと一般の方々に遺跡の事教えてあげないと
いけない。
ky
保育所や町営住宅等が建っている。
1980年(昭和55年)町営住宅建設時に人骨が発見され、
発掘調査された。
遺物は、弥生時代の男女一体づつの人骨、土器片、石器、
貝刃、貝、獣骨、魚骨、兼久式土器片などが出土している。
ここは、宇宿集落内を流れる川(前川)の河口で集落の
方たちはここをニャトと呼んでいた。
方言で河口の事をニャトと云うので、このニャトが漢字
表記になった時「港」になったのだろう。
このあたりの字名も港となっているので、「宇宿港遺跡」
としたのでしょう。
先日宇宿港遺跡は、宇宿漁港のどのあたりにあるのですか
とたずねられた。
「港」と云うと漁港などの港の事だと勘違いして、私も
数年前まで「宇宿港遺跡」は宇宿漁港の近くにあるもの
と思っていた。
港遺跡が漁港の出来るずっと以前に漁港より離れた所で
発見されている事を知らなかったからである。
もっと一般の方々に遺跡の事教えてあげないと
いけない。
ky
2011年03月08日
宇宿戦浜遺跡(うしゅくいくさばまいせき)
万屋集落東海岸一帯の砂丘が「戦浜」と云われていて、ここを宇宿
戦浜遺跡 (うしゅくいくさばまいせき) と云い、笠利町はこの一帯を
1971年(昭和46年)に町指定文化財にしている。
(現在モクマオウ林)
この戦浜の砂丘の一部分に、宇宿漁港整備に伴う取り付け道路計画
があり、道路計画部分だけの発掘調査が1990年に行なわれた。
出土遺物は少量で、魚骨、獣骨が等が出土。土器は兼久式土器片
が出土している。
発掘調査した部分からは、人の定住跡等は見つかっていない。
地域の方たちの話では、発掘調査場所から離れた所からは、
人骨や刀のような鉄製品などが見つかっているとの事。
(現物は無い)
この戦浜は琉球軍との戦があった場所との言い伝えがある。
これが本当なら1571年の琉球軍の大島遠征(大島征伐)時
の琉球軍の上陸地だったのかも知れない。
ky
戦浜遺跡 (うしゅくいくさばまいせき) と云い、笠利町はこの一帯を
1971年(昭和46年)に町指定文化財にしている。
(現在モクマオウ林)
この戦浜の砂丘の一部分に、宇宿漁港整備に伴う取り付け道路計画
があり、道路計画部分だけの発掘調査が1990年に行なわれた。
出土遺物は少量で、魚骨、獣骨が等が出土。土器は兼久式土器片
が出土している。
発掘調査した部分からは、人の定住跡等は見つかっていない。
地域の方たちの話では、発掘調査場所から離れた所からは、
人骨や刀のような鉄製品などが見つかっているとの事。
(現物は無い)
この戦浜は琉球軍との戦があった場所との言い伝えがある。
これが本当なら1571年の琉球軍の大島遠征(大島征伐)時
の琉球軍の上陸地だったのかも知れない。
ky
2011年03月04日
長浜金久遺跡 (ながはまかねくいせき)
長浜金久遺跡(ながはまかねくいせき)は、現奄美空港前の県道両側
数百mの砂丘上にあり、縄文時代から平安時代までの遺跡です。
長浜金久遺跡は、新奄美空港建設に伴い1983年から1986年にか
けて発掘調査され、第1から第5まであった。遺跡は、第2の一部分
を残して他は記録保存となった。
遺跡があった場所は、道路、駐車場(民間駐車場含む)、緑地帯など
になり、ターミナルビルなども立っている。
県道のターミナルビル側緑地帯には、第2遺跡の一部分が現状保存
され、住居址もあり見ることが出来ます。
場所は、奄美空港出口交差点T字路右横砂丘上です。砂丘基部には
遺跡を示す石碑があります。
ky
数百mの砂丘上にあり、縄文時代から平安時代までの遺跡です。
長浜金久遺跡は、新奄美空港建設に伴い1983年から1986年にか
けて発掘調査され、第1から第5まであった。遺跡は、第2の一部分
を残して他は記録保存となった。
遺跡があった場所は、道路、駐車場(民間駐車場含む)、緑地帯など
になり、ターミナルビルなども立っている。
県道のターミナルビル側緑地帯には、第2遺跡の一部分が現状保存
され、住居址もあり見ることが出来ます。
場所は、奄美空港出口交差点T字路右横砂丘上です。砂丘基部には
遺跡を示す石碑があります。
ky